孤高に生きる

 岳母と交わす会話で、介護の話は尽きません。ご自身のこれからに直接かかわることですから、大切な話です。

死を無視できないこと
愛着を手放すこと

 岳母自身も、想像もできなかった老いの実際に直面して、厳しさを感じながらも、直視しなくてはいけないテーマに向き合ってくれました。

 これらを踏まえて、具体的にどう生きればよいのか。そして、同時にどう最期を迎えればよいのか。

 岳母と話を交えながら、心構えと、方向性を見出していきました。

もくじ

孤高に生きる

 子供が世話をしてくれるにせよ、そうでないにせよ、ご高齢になった親御様の取るべき心構えは、孤高に生きる、その一択になります。

 多くの人が、孤高に生きると聞くと、独居だとか、一人で住むだとか、誰の世話にもならないだとか、なんでも自分でやらなきゃならないだとか、勘違いします。

 そうではありません。

 現実の世界における孤高に生きるとは、どういう助けが必要で、どういう助けは要らないのか、自分でハッキリと認識できている状態です。

 要は、できるところはどんどん自分で掘り下げていけば良いですし、できないところは堂々と助けてもらえばよい生き方です。

 助けてもらうのも、子供がやってくれるのであれば、大いにやってもらえばよいです。

 子供があてにならなければ、いまではいくらでも公のサービスが充実していますから、力を借りれば良いまでです。

 重要なのは、この≪ 堂々と ≫というフレーズです。

 逆に、子に愛着を持っていると、孤高に生きられません。

 子供に迷惑をかけるわけにはいかないとか、子供に世話になるのだから言うべきことも言えないとか、遠慮するべきではないところで遠慮したり、曲がったことも正せないような精神状態になります。

 それだと子供は、なめてきます。

 孤高に生きられなければ、その子供の奴隷になるだけです。

 堂々と生きられなくなります

 よほど、公のサービスを使ったほうが気が楽に生きられる場合も少なくありません。

 岳父もそういう一面がありました。世話になるからと、子供に遠慮して過ごしてこられたところがありました。

 さぞ、苦しかっただろうにとも同情もしますが、今日から、そんなバカバカしい生き方は、サッサとおやめになってください、と伝えています。

You are the master, not a slave.

 現実的に孤高に生きるというのはどういうことかについて触れてきましたが、それ以上に大切なのが、心の世界における孤高に生きるとは、どういうことか、その理解です。

 それは、決して奴隷になるなよと、ご自分の人生の主は、ご自分自身であるとの自覚を持つことに他なりません。

 最期までです。

 どの親御様に限らず、これを決して忘れないで意識してください。

 私自身も学んでいるところですが、究極は、生きることへの愛着も捨てる。

 だからこそ、死を認める重要性があります。

 ただ、この話になると、記事が長くなるのと、まだ岳母にも、さわりしか話をしていないので、またの機会に譲ります。

 ここでは、私が学び、大事にしている言葉を紹介して、セクションをクローズします。

 You are the master, not a slave.

子供を観察する

 さて、孤高に生きると決めたら、できないところを堂々と助けてもらいます。

 このとき、本当に頼りになる子供に助けてもらいますが、その前に、子供をよく観察してみてください。

 子供にも配偶者がいれば、普段、子供らの家族の状態もよく観察してみてください。

 人同士向き合ったとき、魂胆のある人間、信用できない人間は、感覚的にすぐに伝わります。

 相手が子供でも一緒です。

 どれだけ、取り繕ったところで魂胆があれば、すぐに判ります。

 配偶者と実の子が、親御様ご自身の介護についてどんな話をしているのか、それもすぐに判ります。

 もし、これで判らなければ、堂々と助けてもらうシーンを考えてみてください。

 具体的に、私から岳母には次のような話をしています。

わたし

どの子供や、その配偶者にお世話になるとしても、老いが進み、病が進めば、その人の前で下着を脱ぐことになります。

パンツを下して、排泄するところも付き合ってもらわないといけません。

そのお付き合いは、一日に1回という頻度ではありません。日に何度もおとずれます。

寝たきりになれば、陰部の洗浄もする必要が出てきます。

歯も磨いてもらわないといけなくなります。

その時、どの人だったら安心して信頼して支援してもらえると思いますか?

 岳母は、岳父の介護で排泄介助も懸命に担ってきたので、その大変さはよく判っておられます。

 ただ、将来、いざ、ご自身が排泄介助を受ける立場を想像した時、岳父の気持ちもよく理解されたようです。

 また、この質問で、どの親御様にとっても、ご自身に介護支援が必要になった時、信頼を寄せられる人物が見抜けるはずです。

 子供が世話をしてくれると言ったら、嬉しさのあまり信じて乗せられてしまうのは避けてください。

 別の機会の時に、私は岳母にこんな話もしたことがあります。

わたし

もし、子供が介護をしてくれると言ったら、喜んでいる場合ではありません。

あなたは、毎日、私の下着をおろして、トイレのお世話ができるのか?

これぐらいは、子供に聞き返す気概がないといけません。

 魂胆のある子は、たじろぎます。親子と言えども別人格です。

 愛着をもって、≪ 私が生み育てた可愛い子 ≫というフィルターを通して子供に接しているうちは、実の子の魂胆は見抜けません。

 オレオレ詐欺にひっかかる高齢者が後を絶たないのも、その詐欺の手口は、べったりと子供に貼り付けている愛着をフルに悪用されている実態を知ってください。

 なので、まず孤高に生きると決めてください。

 そのうえで、どの子供なら介護を任せて大丈夫なものかを見極めてください。

 この時、≪ あなたは、毎日、私の下着をおろして、トイレのお世話ができるのか? ≫、というフレーズは、とても役に立つはずです。

 ここで、実の子供であっても、介護に相応しい人物がいないというのが当たり前だ、とも思ってください。

 本能的に多くの子供は親の介護をするのを厭うものです。

 その時は、公のサービスの力を借りれば良いのです。

 善人にも、悪人にも例外なく、親がいます。

 しかし、自分の子供だけは、親を裏切らずに介護をしてくれると期待していたら、とんでもない老後を過ごします。

 本能的に多くの子供は親の介護をするのを厭うものです。それでも、介護をしてくれるという子供がいたら、ぜひ、聞いてみてください。

 ≪ あなたは、毎日、私の下着をおろして、トイレのお世話ができるのか? ≫

 子供の魂胆の有無が判ります。

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