自らの出自やルーツを把握するという試みは、「自分はどこから来たのか?」という問いが個人のアイデンティティ形成にとって極めて重要だからです。
米国では、系譜学として体系づけられた学問になっていると聞きます。日本は、単一民族国家であり、戸籍制度がしっかりしていますから、日本人として産まれれば、系譜は辿ることができました。そのため、あまり興味を持たれないのが一般的なのかもしれません。
しかしながら、年老いた親御様の在宅介護は、みずからの出自やルーツを解き明かし、親の最期が子との別れを絶対にした後、子の人生に大きな意味をもたらします。
マスターすべき日本の歴史
本当に学ぶべき歴史は、時間経過を伴う中心軸が必要です。
それが、自らの出自であり、ルーツです。
教科書で学んだ歴史教科書は、誰もが共通して知っておくべき表面的な知識です。
例えば、徳川家康が江戸幕府をひらいた、という日本史の事実は、誰もが共通的に知っておかないと現在社会の成り立ちを認識するのに不便だからです。
しかしながら、徳川家康さんが江戸幕府をひらこうとなにしようと、自分の先祖が江戸のその地にいるわけではなく、どこか別のところで暮らしがあったわけです。
先祖の暮らしを調べていくと、自らのルーツが見えてきて、学校で学んだ歴史と比較することで、初めて当時の日本が見えてきます。
それがマスターすべき日本史です。
自分が産まれる前の時代
病状の程度にもよりますが、認知症であっても昔の記憶はしっかりしています。
親から、自分が知らない話、自分が産まれた当時やその前の出来事を聞く機会からルーツの調査は始まります。
よくその時代を生き抜いてきてくれた。
そんな感謝が絶えないエピソードをいくつも聞くことになります。
例えば、苗字と家紋のルーツ。
そもそも日本人の苗字は、氏姓制度にまで遡ります。
あまり詳しく書けませんが、その苗字には隠された意味が明確にあります。

だから、自分のルーツはこうだから、今日までこうやって生きてきたのか。
自分に宿るDNAのメッセージを受け取ったかのような納得感がそこにはあります。
つまり、「自分はどこから来たのか?」という問いかけの答えが、在宅介護を通じて自分の親と真剣に向き合うことで浮かび上がってきます。
それは、個人のアイデンティティ形成にとって極めて重要な基礎となります。
なぜなら、親との最期の別れは否が応でも来ます。
遺された子は、いよいよ親のいない世界を生きるわけですが、その時にアイデンティティがより強固に形成されていなければ、進むべき道を誤ります。
困窮するのが在宅介護
年老いた親御様の在宅介護の責任を担えば、生活面でたいへんな状況を迎えます。
といっても、慣れてしまえばどうということはありませんが、それでも生活を軌道に乗せるまでは経済面、精神面、肉体面、健康面といったあらゆる面でプレッシャーがかかります。
在宅介護を完遂するというのは、その状態から人生を切り拓いていくことになります。
この時、安易な選択は、自分の人生を苦しめる道へと導いてしまいます。
なぜなら、在宅介護を完遂してからも、さまざまな責任が発生します。
相続もその一つです。
僅かな現金が遺るような状況であっても、敵対するきょうだいは容赦なく取り立ててきます。
それが、現実です。
しかしながら、そこから逃げずに真正面から向き合い、乗り切って、さらには自分の人生を介護前よりはるかに充実させるのもまた、親御様への供養です。
この時に必要な素養が、ルーツであり、それが自らのアイデンティティを支えます。
確固たる信念で、進むべきが道が確実に見えます。
ルーツは、恐れを除外し、その家系の矜持を与えます。
ルーツを知れば、恥ずかしい生き方はできなくなります。
出自を知り、ルーツを学ぶ行為は、非常に道徳的な強固な社会を創り上げるために必須の素養となります。従来の日本社会は、それを特段に調べようとしなくても受け継がれたDNAから、道徳的な社会を形成してきました。
ところが、昨今は世代間で憎しみ合うようなプロバガンダが流布されるようになりました。親の介護をすることで、生活が成り立たなくなるかのような風潮が形成されているのが今日です。介護は介護サービスに任せればいいんだという考えが支配的になります。
確かに、介護サービスは非常に助けになります。だからといって、年老いた親御様を在宅で介護するのが基本であり、その支援のために介護サービスがあるとしなければ、都合の良いプロバガンダを流布する人々の罠にかかります。
自らの手で姥捨て山を作ってはいけません。