認知症を斬るー心は認知症に罹患しないー

 年老いた親御様が認知症を患い、その介護に献身的にあたっている人も多いことでしょう。

 私も、認知症を患った実母の介護には、全ての力を使い切りました。そもそも認知症とは、何なのか。罹患した当初の実母に接した絶望にも似た感覚は、なんとも言えないものがありました。

 でも、その病気にダイレクトに接し、その病気をかかえる実母とのコミュニケーションを通じて判ったのは、≪ 心は認知症に罹患しない ≫、この現実です。

 例えば、認知症を患い、トイレが上手くできない親御様に接すると、介護する子の立場としては怒りませんか?

 でも、一方で、認知症を患った人に怒ってはいけない、というのを耳にされるでしょう。

 これでは、どうしたらよいものかと八方塞がりとなり、在宅介護は困難な坂道を転げ落ちるかのような作業が、ずっと続くかのような未来に落ち込むはずです。

 また、ここに明確な解決策を出せる人は、そう多くはありません。

 なぜなら、認知症は肉体(脳も肉体の一部です)に生じる病であって、心に生じるわけではない、この意味が判らないのです。

ご注意
このウエブサイトで取り扱う認知症について
 あくまでも、私の在宅介護経験による観察、知見、そして介護実践での話であり、科学的、医学的な学術的アプローチにまで昇華できず、証拠、エビデンスがあるわけでありません。そのため、日本のある家庭で行われた介護の状況として、私の主観に基づいて解説が加えられた認知症に対する日々の介護アプローチとして捉えていただき、この情報をもって、認知症が治るだとか、認知症の介護が楽になるといった利益は決してもたらされないことをご理解の上、このウエブサイトの情報をご活用ください。

もくじ

認知症でもトイレを問題なく出来るようになるために

 一例を挙げて話を進めます。

 認知症を患いトイレにいけず、漏らしてしまうご高齢の方を想像してみてください。

(1)尿意を感じて、(2)トイレに行き、(3)用を済ませて、(4)水を流して、(5)トイレから出る。

 このあまりにも当たり前すぎる行動ですから、認知症に罹患すると、なぜトイレもできないのかとも思うことでしょう。

 しかし、(1)~(5)の過程においても、もっと細分化できるプロセスはたくさんあります。あげればキリがないほどで、立つ、歩く、膝を曲げる、衣類を脱ぐ、呼吸は続ける、床を見る、扉を開ける・・・。

 ものすごく多くのプロセスが連続して生じて、トイレを済ませるというタスクが完了します。

 いちいち、トイレ一つで、こんな細かいプロセスの連続に気づいていられないですよね。

 それが、一般的であり、普通の生活です。

 でも、認知症を理解するためには、実は、この≪ 気づき ≫が大切なのです。

 というのも、認知症を患うと、どこまでが当たり前のように判っていて、どこからがよく判らなくなるのか。

 ここがポイントなのですが、判別はつきますか?

心は反応する機能群

 ここで、大事になってくる知見、知識があります。

 それは、心とは、反応する機能群であるという事実ですが、詳細は以下の記事にまとめてあるのでここでは割愛します。

 心とは、常に外部から肉体を通じての刺激に反応するようにできています。

 尿意もその一つで、認知症が進行してもそれは感じます。もちろん、感じはしますが、尿意か何かがよく判らなくなってしまうというのはあります。また、判らなくなったとして不快感は、言葉に出なくても目で訴えられることもあります。

 感じる程度は別にして、尿意があれば、それが尿意だどハッキリと判るレベルなり、何がしかなりを感じるわけです。

 しかし、それを感じたまでは良いけれども、その先にどう行動したらよいのかが判らない。

 この判らなさの露呈が、認知症症状です。

 人によっては、その場で漏らしてしまいます。別の人は、トイレに行って用を足せるけれども流せません。また、別の人はトイレの場所を探し続けます。

どうしてよいか判らない状態で怒鳴られる

 認知症を患った人の気持ちに立って、トイレの不都合さを考えてみましょう。

 実はものすごく単純な話です。

 心は認知症に罹患しないので、尿意があったとして、それが尿意だと判ったにしても、わからないにしても感じる何かに対して、次にどうしたらよいのかが判らないだけで、単に困っている状態なだけなのです。

 ここで、介護する子供から、『なんでトイレもできないのか!』などと怒られてみてください。

 年老いた親御様としては、これまで親としてそれこそ命を懸けて育ててきたにも関わらず、トイレで困っている自分の気持ちさえも判ってもらえないと、ものすごく落ち込みます。

 親御様の気持ちからしてみたら、大変なショックですよ。

 しかし、どうしてよいのかが、年老いた親御様も、介護する子もわからない。

 道徳的に素晴らしい行為を積み重ねている在宅介護の日々が、負担ばかりが積みあがっていく暗黒の時間へと成り果てていくのはこのためです。

 でも、大丈夫です。

 そのソリューションを次の記事で紹介します。

 私は、実母の在宅介護の最初から認知症というのが判っていたわけではありません。

 というよりも、実母が認知症と判ったので、そこから検索エンジンで認知症を調べるのがスタートラインでした。

 ただ、誰よりも注意深く、認知症を患った実母を、24時間、365日、観察し続けてきました。それは、少しでも病の苦しさを和らげてあげたい一心からです。

 ドクターであれば、何人もの認知症患者を診察することで、患者に対して病への改善の幅を広げていくアプローチをするでしょう。一方で、介護する実の子は、認知症を患ったとしても、実母として接し、実母に最適な認知症改善のポイントを探っていくことが可能になります。

 そもそも、認知症は、外科的手術ができるわけではありませんし、薬を投与するといっても効果てきめんというものはありません。端的に言えば、ドクターだからといって認知症はどうにもなりません。だからこそ、実の子の立場による親御様の認知症を改善を試みるアプローチが可能になるのです。

 分野に限らず、たとえ自らが端くれであっても、未知なる世界への研究者、パイオニアとしての誇り、自覚、そしてそのアプローチへの価値を踏まえていれば、実の親御様の病気や、苦しみを救って差し上げたいと思いませんか?

 これができるのも、実の子という立場と特権があるからなのです。

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