認知症を斬るー信頼関係の構築がまず最初ー

 年老いた親御様の在宅介護で、特に親御様が認知症を患っているならば、決して蔑ろにしてはいけないのが親子の信頼関係です。

 親子だからといって信頼関係が成立っているとは限りません。

 例を挙げます。

 もし、あなたが親の立場であるとき、子の前でパンツをおろせますか?

 介護する子の立場であるとき、親が当たり前のようにパンツをおろして介護させてくれますか?

 このようなことは言うまでもなく当たり前です、と胸を張って言えるような関係構築ができていなければ、意義のある在宅介護は始まらないのです。

ご注意
このウエブサイトで取り扱う認知症について
 あくまでも、私の在宅介護経験による観察、知見、そして介護実践での話であり、科学的、医学的な学術的アプローチにまで昇華できず、証拠、エビデンスがあるわけでありません。そのため、日本のある家庭で行われた介護の状況として、私の主観に基づいて解説が加えられた認知症に対する日々の介護アプローチとして捉えていただき、この情報をもって、認知症が治るだとか、認知症の介護が楽になるといった利益は決してもたらされないことをご理解の上、このウエブサイトの情報をご活用ください。

もくじ

誰だって人前でパンツをおろしたくありません

 親子の関係であっても、夫婦の関係であっても、トイレで用を足すにあたって手伝ってもらいたいと思いますか?

 答えは、ノーです。

 私の初めて介護経験となった実母の認知症ケアでも、義歯洗浄、排泄介助が当たり前になるまで、試行錯誤はありました。

 実母であっても、実の子である私にさえ、義歯を外した顔を決して見せませんでしたからね。

 それでも義歯を洗わせてほしい、とお願いして外してもらい、それを素手(感染症の恐れを排除するため本来は手袋着用です)で受け取り、丁寧に義歯を掃除する姿をみせたら、それ以降は任せてくれるようになりました。

 排泄介助に至っては、普通の下着からリハビリ用のパンツに変えてもらうのも、実母に限らず、誰だって簡単には納得できないのが当然の心境です。

 もし、この理解がおよばず、介護する立場にあって、リハパンが目の前にあるなら、一度、穿いてみてはいかがでしょうか?

 穿く前の抵抗感を知り、リハパンへの強制に納得などできないと判ります。

心が大きく動くから信頼が消えない

 義歯洗浄にしても、排泄介助にしても、実母が認知症を患ってから私が担ったケアです。

 もし、認知症が何も判らなくなる病気だとすれば、一度は義歯洗浄や排泄介助のケアを任せてくれたとしても、次は任せてはくれないでしょう。

 でも、一度、それらのケアを任せてくれたら、ずっと任せてくれるようになります。

 この現象、当たり前と思ったら間違いです。

 なぜなら、認知症は何かを言った傍から、忘れていってしまうという理解ですよね!?

 未だに認知症が不治であり、未知の部分が多いと言われていて、それに異論はありませんが、≪ 心は認知症に罹患しない ≫、この事実への理解がまったくもって乏しい。

 なので、心のパワーを活かせない。

 そもそも、≪ 信頼 ≫とは、脳で考えて判断するものでしょうか?

 それとも、心に生まれるものでしょうか?

 本当の信頼関係は、上っ面のたくみな言葉で成り立たないのはご存じのはずですね。

 脳で考えて作られるものではありませんね。

 そうではなく、信頼とは、心に生じるのが本物です。

 心に生じる信頼関係をベースにして認識したイベントは、認知症を患ってもそれが霧散する記憶にはなりません。

 ですから、認知症を患っていても、信頼して任せると決めてくれれば、義歯洗浄、排泄介助を任せてくれます。

 逆に、怪しさや悪意のある魂胆をもって接近してくる人は、言葉を交わさなくても直感的に判るものです。

 それは、すべて心が仕事をしてくれる事実です。なので、心への理解を強くお勧めしています。

 認知症を患った人に接する時、表面的な薄っぺらいコミュニケーション・テクニックなどは、言葉には表せなくても心に不信感としてあり続けます。

 それが、認知症ケアを難しくしているに過ぎません。

リハパンを穿いてもらう

 では、私が実母にリハパンを穿いてもらうために、何をしたのか?

 義歯の時と同じです。

さくら

トイレの介助を任せて欲しい。

そのためにお母さんと一緒に生活しているんだ。

 もう少し、言葉はいろいろと伝えたように思いましたが、要点としては、安心して排泄介助を任せて欲しい、と実母にお願いをしました。

 ただ、当時、実母は、少し考える間をおいて、静かにこう答えてくれました。これはよく覚えています。

実母

わかった・・・。

 また、実母自身、心で決断をしなければ、醸し出されない気持ちと言葉だったのをよく覚えています。それだけ、抵抗感はあるものです。

 それ以来、私は、実母と一緒にいる時は、必ずトイレの介助をしました。

 私が寝ている時でさえ、母がトイレに行きたくなったら起こしてくれて構わないと伝えた上でのことです。

 この姿勢が当然なのも、私がトイレ介助を任せて欲しいとお願いしたのですから。

 これを約束と言います。

 私は、在宅介護をはじめるにあたり、覚悟を決めて実母のケアに責任を持ちました。

 覚悟は、脳で考えてするものではないのは言うまでもありません。

 心で決めるから、それが相手にも伝わる。

 たとえ実母が認知症を患っていても、それは単なる脳の問題であって、心は認知症ごときが犯せる病ではありません。

 ですから、認知症を患っていたとしても、実母とは心を通じたコミュニケーションが成立ち、認知症症状を表面化させない取組へとつながっていくのです。

 認知症が、ボケといった視点しか持てず、何も判らなくなる病ぐらいの見解しかなければ、このような取り組みは成り立たないのはおろか、親子であっても信頼関係など成り立つわけがないのです。

 さて、ここからが認知症を患う実母へのトイレと心の関係に迫っていきたいのですが、まだ前置きが長くなりそうです。随時の今後の記事で紹介してまいります。順を追って、お付き合いいただければ幸いです。

 如何に在宅介護の取組で、心というものを重要視しなくてはいけないのか。

 この記事からも少しでも伝われば嬉しい限りです。ドクターも、介護サービスの仕事に従事している人も、心を重視したケアを体系的に理解している人を私は知りません。

 なぜなら、そのようなプロと称される人でさえ、自らの心すら発見した経験などまず無いからです。もし、心の発見しているならば、そのパワーをもっと広く周知すべきであり、可能なはずです。

 しかし、ドクターが対処してくれるのはあまり効果が認められない認知症薬の処方であったり、介護施設では脳の活性化と称する塗り絵等々が限界です。

 認知症を患ったとしても、どうすればこれまでに近い形で生活が可能になるのか。現在でも、その研究成果は乏しいと見受けます。

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