人生を振り返り、もっと勉強できたなぁ、と思いませんか?
人生を損した気分の一つです。
もう一つ、やらなかったことで損する取組があります。それが、在宅介護。
介護離職は良くないかのような雰囲気が支配しますが、私は全く逆の見解を持っています。
なぜなら、年老いた親御様を在宅介護でお世話をして、寿命まで支える行為そのものが、どれだけ自分の人生を実り多いものにするか。
多くの人はそれを知らないばかりか、知ろうともしません。それが、在宅介護の機会を逃すことで最も損することです。
貴方にとって勉強とは?
国語算数理化社会で高得点をマークするのが勉強ですか?
良い学校、良い会社に入るためにするのが勉強ですか?
否定はしませんが、それが主ではないですね。
勉強は、自らの人生を切り拓くためにやる。
切り拓くために教養を身に付ける。
まぁ、あまり私が勉強についてご高説を述べる立場にありませんが、勉強しないで損をするのは自分自身。
これは、間違いありません。
そして、もうひとつ、この現象と同じ結果を招く取組があります。
それが年老いた親御様の在宅介護から逃げること。
在宅介護の本懐は、死のマスター。
いわゆる、お勉強が「生」を切り拓くためにするのであれば、年老いた親御様の在宅介護は、「死」を自らのものとするための勉強です。
ハッキリと申し上げますが、自分が死んだときに何を思って死にたいのかを考える必要はありません。
なぜなら、その答えは決まっているからです。
すなわち、人間で生まれた以上、人間以上で死ななければ意味が無い。
人間以上の取組をした証が、年老いた親御様の在宅介護です。
在宅介護で、最も損したこと
それはズバリ、若い頃から在宅介護の価値を知らなかったことに尽きます。
もし、知っていれば人生設計が異なります。
なぜなら、ほとんどの人は、人生を「下」から見るしかありません。
「下」からというのは、30代になって、40代になって、50代になって・・・、という風に年齢が上がっていく方向にしか考えられないのです。
なので、30代の頃に自分が60代、70代になる現実は想像ができません。
30代の人が考える60代なんて、どこか遠い他人のイベント程度の認識のはずです。
しかし、在宅介護の価値を知っている人は、立ち位置が違います。
それは、「最期」から考える。
つまり、人生を「上」から見ています。
人生を「上」からみれば、手放していくのが人生という名の生命プロセスだと見えてきます。
にもかかわらず、どうですか?
手放せないで苦しんでいる人の多いこと、多いこと。
こだわるな、というのでもありません。
なんでも捨てろ、というのでもありません。
少しでも多く奪おう、ちょっとでも多く取ってやろう、苦労もせずにかっぱらってやろう・・・。
そんな人が周りに多くなってきていませんか?
かつて、核家族化が進む前、代々、継がれてきた家系の流れの中で、人生を「下」からも、「上」からも観察できるのが普通の家庭でした。
しかし、死を知らず、老いを知らず、病を知らず、永遠に生きられるかごとく今に刺激を求める。
飽くなき刺激への欲求が、不老不死さえも求める時代です。
進化は新陳代謝
無知は、人生の選択肢を狭めます。
知らなくてもよかった・・・、などとも言われますが、知ったうえで取捨選択する方がはるかに有利な人生を歩めます。
なので、勉強は常に必要です。
私もまだまだですから、もっと学びたいという気持ちは衰えません。
例えば、私の在宅介護で得られた経験がどれくらい応用できるのか。
そのチャレンジは、さまざまな面で続きます。
ひとつ、住まいを例にとってみましょう。
20代、30代の頃に考える住まいの形と、60代以降に考える住まいの形は当然、異なります。
しかし、30歳で35年ローンを組んで住まいを購入した時、65歳になったらその住まいは本当にご自分の生活にマッチしたものになっているでしょうか?
在宅介護の実際を学んでいなければ、70代、80代になっても快適な住環境について、自分なりの答えは持てません。
玄関先にスロープは必要か、否か。
住まいだけに限りません。
仕事、環境、人間関係、学習内容、食、・・・
かつて好んでいた対象も、時が経てばそれは自分の首を絞めてくる現実に気づくでしょう。
在宅介護は、手放すとは何か、それを教えます。
老いという肉体の現象でさえそうなのですが、それに囚われなければ、心は軽くなっていきます。
新陳代謝です。
最高の学びの場です、在宅介護は。
科目は、「生きるとはなにか?」。
及第点は、まずは年老いた親御様を寿命までしっかりと支える行為を完結することでしょう。その行為で、さまざまな葛藤や、困難に直面するはずです。そのたび毎に悩み、苦しみ、そして突破口を見出すために全力を出すはずです。それが必ず学びとなって、在宅介護の後の人生に活きてきます。

