認知症を斬る―判る/判らないの境界―

 認知症に罹患すると何も判らなくなると思われがちですが、違います。

 もちろん、病は進行し、不可逆性ですから、快方にはむかいません。自分の子供の顔や名前すら判らなくなるといった状態にもなりますから、接したらもう何も判らない人だと思われるかもしれません。

 でも、発語ができる健康状態で話をしてみると昔のことは覚えていたり、今、感じている嫌なことは嫌とハッキリとした意思表示もされます。

 他にも、特段、身体に不自由がなければ、立つ、座る、歩く、横になる、といった行動もできます。また、このようなアクションの促しにも、言葉をかければ、応じてくれる時はすぐに応じてくれます。

 もし、認知症が何も判らなくなる病気であれば、こうはなりません。

 ポイントは、判らなくなるところ、判るところ、その境界が明確にある認識と見定めです。

ご注意
このウエブサイトで取り扱う認知症について
 あくまでも、私の在宅介護経験による観察、知見、そして介護実践での話であり、科学的、医学的な学術的アプローチにまで昇華できず、証拠、エビデンスがあるわけでありません。そのため、日本のある家庭で行われた介護の状況として、私の主観に基づいて解説が加えられた認知症に対する日々の介護アプローチとして捉えていただき、この情報をもって、認知症が治るだとか、認知症の介護が楽になるといった利益は決してもたらされないことをご理解の上、このウエブサイトの情報をご活用ください。

もくじ

観察眼

 認知症を患った人に対してだけではありません。

 オススメな訓練が、≪ 観察 ≫です。

 観察眼を鍛えます。

 日々、会う人たちの表情、仕草、雰囲気、発する言葉・・・。

 定時、定点観察しているからこそ、ちょっとした違いが手に取るように判ってきます。

 チームワークで仕事をするなら、テレワークより、出社して仕事をするほうが良いという理由の一つです。

 メンバーの心身の状態をお互いに理解しあえなければ、良いチームワークはできないですからね。

 これは、在宅介護でも全く同じです。

 まず、年老いた親御様が認知症に限らず、どのような健康状態であれ、欠かすことのできない家族の一員です。在宅介護で親御様の介護の責任を担う立場であれば、この認識はとても重要です。

 この記事に少し言及しながら、観察眼の重要性をお伝えします。

 会社組織でチームワークという言葉がありますが、そこには出来る奴も、出来ない奴もいます。出来ない奴を辞めさせて、出来る奴を入れればより強いチームになるかと言えばなりません。

 家族も一緒です。手のかかる年老いた親御様を切り捨てれば、よい家族になるでしょうか?

 外部の手はいくらでも借りてもよいですから、どれだけ病を患ったとしても親御様は欠かすことのできない家族の一員という意識は捨ててはいけません。

 その意識さえあれば、この観察眼は鍛えられます。

 出来ない奴ほど、どうやったら出来るようになるかを考えてやるのがよい上司であるように、老いと病の渦中にある親御様の苦しみをどう軽減できるかを考えてあげたくなるから、よく観察するようになるのです。

分析眼

 観察ができるようになれば、次に行うのが分析です。

 まず、認知症症状が表面化するとき、その心では何が生じているのかを一緒に分析してみましょう。

 検索してみると、よく認知症を患った人の気持ちが出てきます。

 それを一読してみるのもお勧めしますが、実は、日常の私たちも似たような状況は実感しています。

 よく不安に襲われてどうしようもなくなり、落ち込み、それが何日も続けば、拒食になったり、不眠に陥ったりします。

 さらにどうしようもなくなれば、ぶちぎれて発狂してみたり、自殺を試みようとしたりします。

 自分がどうしようもない現実に直面すれば、次にどうしたらよいのか、ひとまずパニックになったりしますよね。

 これらの症状は、思い通りにならない現実への≪ 怒り ≫の感情が大暴走しているに過ぎません。

 指先の細胞が怒り狂ったり、耳たぶの細胞が落ち込んだりするようなわけもなく、身体がどうにかなっているわけではないのはハッキリしています。

 一方で、認知症は、脳に問題が生じる病気です。

 認知症を患った人の心から脳をみると、その脳がこれまでのようにしっかりと機能しない現実に直面します。

 私たちが思い通りにならない現実に直面し心が苛立つように、認知症を患う人たちは、脳が思うように機能しない現実に直面し心が苛立ちます。

 これが不穏の正体、というのが私の見解です。

判らなくなるところ、判るところの境界

 次にトイレ介助の現実を分析してみます。

 いわゆる健康な状態であれば、尿意を感じれば、トイレに向かうはずです。

 その場で、漏らしてしまうという現実を迎えません。

 では、なぜ認知症を患うとトイレが上手くできなくなるのか。

 それを大雑把に分析してみます。

 まず、尿意が生じます。この時、尿意だと判るか、判らないのか。

 尿意だと判ったとして、トイレに行かなくてはいけないと思って、トイレの場所が判るのか、判らないのか。

 トイレの場所が判ったとして、下着を降ろさなくてはいけないと思って、下着を降ろせるのか、降ろせないのか。

 下着を降ろせたとして、用を足したのち、汚れを拭きとらなければいけないと思って、拭きとれるのか、拭きとれないのか。

 汚れを拭きとれた後に、水を流さなければいけないと思って、水を流せるのか、流せないのか。

 もっと細かく分析できますが、ここでは重要ではありません。

 重要なのは、このように分析してみると、親御様のトイレ介助をするうえで、認知症によりどこまでが判っていて、どこからが判らなくなるのか、その境界がハッキリしてくる理解です。

 この境界をハッキリさせていく観察と分析とを合わせての理解が、≪ 気づき ≫なのです。

 この境界さえ、明確になれば、どこまでは自立して一人でやってもらい、どこからが手助けが必要になるのかが明確になり、介助作業がバツグンに効率よくなります。

 次の記事で、実母へのトイレ介助の実際をお伝えします。

 ただ、その前にご理解いただきたいのは、在宅介護で何といっても重要なのは、手のかかる認知症を患った親御様の介護なんか煩わしいと思っていたら、この記事内容は決して活きてきません。

 どれだけ手がかかろうが年老いた親御様は欠かせない家族の一員です。この意識の無いところに在宅介護は上手くいきません。

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