認知症を斬る―トイレ介助の認識の境界―

 度あるごとに書きますが、認知症は何も判らなくなる病ではありません。

 進行すれば、発語もできなくなり意思表示は難しくなりますが、心は正常に働いています。ただ、状況への理解が伴わず、心は不安が生起し、その不安にのまれます。

 健常者としての私たちにとって、その状況を置きかえて考えてみましょう。

 例えば、交通量の全くない海外の道路で車を運転していて、突然に車がエンストして故障し、地図を持たず、ナビも壊れて、知らない言語の標識しかなく、電波も届かない状況に置かれたと思ってみてください。

 不安にのまれるはずです。その不安ののまれ方と、認知症の人が思いもよらない行動を取る前の感情ののまれ方は、よく似ています。

 ただ、健常者であれば、不安な気持ちはあったとしても、何とかできる手段を模索するでしょう。

 しかし、認知症を患うとそれが出来ない。より具体的には、心では何とかしようと思っても、脳がうまく機能しないので、Aという理解と次にくるBという理解が結びついていきません。

 結果、最適な答えにたどり着かなかったり、適切な行動に結びつかず、不穏になったり、徘徊したり、思いもよらない行動をとる、というのが私の見解です。

ご注意
このウエブサイトで取り扱う認知症について
 あくまでも、私の在宅介護経験による観察、知見、そして介護実践での話であり、科学的、医学的な学術的アプローチにまで昇華できず、証拠、エビデンスがあるわけでありません。そのため、日本のある家庭で行われた年老いた親の在宅介護の状況として、私の主観に基づいて解説が加えられた認知症に対する日々の介護アプローチとして捉えてください。この情報をもって、認知症が治るだとか、認知症の介護が楽になるといった利益は決してもたらされないことをご理解の上、このウエブサイトの情報をご活用ください。

もくじ

信頼関係が大前提

 介護施設でも職員と利用者様の間で信頼関係が成立たなければ、利用者様は施設に来なくなります。

 これは、日常茶飯事です。

 デイサービスの利用者が認知症を患っているからといって、全く記憶の無い状態で帰宅するかといえば、違います。

 介護職員の発したデリカシーの無い言葉を受け、もう行かないと、認知症を患う実母が心情を吐露した時も一度や、二度ではありません。

 このことはまた別の機会に詳しく記事にしますが、このような信頼関係の重要性は実の親と子の間でも同じです。

 介護の責任を担う子の立場であれば、もし介護してやってやってるんだぐらいの気持ちしかなければ、親はその子に介護してもらいたくはありません。逆の立場に立てば、自明の理です。

 少なくとも、親御様の介護を通じて、学ぶべきを学ぶ。

 その学びの一つとして、また最重要と言っても良いのが最期であり、それこそ命を懸けて親は子に≪ 死を通じて生きるとは何か ≫を教えてくれるのですから、当然のこととして謙虚さが生まれなければおかしいというものです。

 これが介護の責任を担う子の姿勢があり、親との信頼関係の基礎になります。

 そうでなければ、下着をおろしてくれないのはもちろん、リハパンなんて穿いてくれませんよ。

 この記事を読んでくださっているあなただって、いま、リハパンを穿けと言われた嫌でしょ?

 リハパンを穿いているんだから、そこで糞尿をしろといわれて、スッキリと出せますか?

 もしわからなければ、実際に体験されるのをお勧めします。

 ここに思いを馳せるのが、トイレ介助にあたっての姿勢であり、親との信頼関係が生まれる基礎になるのです。

尿意を感じて用を足して水を流すまで

 ここで、尿意を感じて、小便をすませ、水を流して、トイレが出てくるまでのプロセスを分析します。

 日常は、このような分析をするまでもなく、トイレを済ませていると思います。

 それをあえて分析します。

  • 尿意を感じます。
  • トイレに行こうと決断します。
  • 立ちます。
  • トイレに向かって歩きます。
  • 扉の取っ手に手をかけ、回します。
  • 扉を開けます。
  • トイレの中に入るため、歩みます。
  • 便器の前で下着を降ろします。
  • 便座に着座します。
  • 小便をします。
  • 用を足したのを確認して汚れを拭きとります。
  • 便座から立ちます。
  • 下着を穿きます。
  • 身なりを整えます。
  • 水を流します。
  • 扉の取っ手に手をかけ、回します。
  • 扉を開けます。
  • トイレから出るために、歩みます。
  • トイレが出て扉を閉めます。
  • 手を洗います。

 ものすごく大雑把にトイレで小便をすませるプロセスを分析しても、これだけの子プロセスが連続しています。

 例えば立ちます、にしてももっと細かい子プロセスとして心の動き、身体の動きのひとつひとつまで分析できます。ただ、今はそこまでは必要なく、この程度の大雑把さのプロセス分析が大事になります。

 というのも、実際に認知症を患った親御様がどこまでが判ってできていて、どこからが判らなくなってくるのか、その境界の気づきを得る必要があります。

 認知症を患った実母の在宅介護のトイレ介助では、最初は試行錯誤がありますが、小便は、ぐらいまでの子プロセスは自分で出来るようになりました。また、大便はぐらいのまでの子プロセスまでは自分で出来るようになりました。

安心感という感情が記憶のトリガー

 認知症を患った人の気持ちは、常に不安がつきまとっています。

 冒頭に書きましたが、常にわけのわからない認識にあり、どうにもできない状況に苛まれています。

 なので、不安に苛まれるのがデフォルトなのが認知症なのです。

 しかし、どこまでが判っていて、どこからが判らなくなるのか。

 認知症を患った親御様も、自分が出来なくなる、わからなくなるという自らの状態を実はよく判っています。

 介護の責任を担う子は、その境界をキチンと気づいてさしあげて、判らなくなる境界から介助や手助けの支援をすれば、認知症を患った親御様も≪ 安心感 ≫を得ます。

 例えば、トイレ介助を例に取れば、基本的には誰だって手助けなんかしてほしくありません。

 自分で出来たい!、と思うのが健全な考え方です。

 これは認知症を患った親御様も同じです。

 ですから、介助する子の立場であれば、できなくなる境界に気づいてさしあげたうえで、できるところまでは見守り、出来ない境界から手助けをしてさしあげる。

 できなくなる境界から助けが入りますから、認知症を患った親御様も≪ 安心感 ≫を得ます。

 この≪ 安心感 ≫という極めて良好な感情が記憶にはものすごく良い影響(このことは別の記事にまたアップしますが、今はそのようなものだと覚えておいてください。)をもたらします。

 そのため、認知症を患った親御様がトイレに行きたいと思った時、実の子がしっかりと介助してくれる≪ 安心感 ≫をトリガーに、次のトイレ、また次のトイレと介助をまかせてくれるようになります。

 また、この≪ 安心感 ≫があるからこそ、トイレ介助にあたって、親と子でお互いに決まり事をつくっても、その決まり事を認知症を患った親御様もキチンと守ってくれるようなります。

 リハパンだって、介助してくれる子に迷惑をかけられないと積極的に穿いてくれるようになります。

 もし、世間で浅く広くしか知られていないように、もし認知症がわけのわからなくなる病気だというのであれば、こうはいきませんよね。

 健常者から見れば、実の親御様であっても、最初は、認知症を患った人としての行動は理解できません。人によっても認知症の症状の生じ方は異なります。

 しかし、どこまでが判っていて、どこからが判らなくなるのか。

 その境界を見定めて、気づいてさしあげることで認知症の理解が始まります。

 不穏や、理解できない行動をとるのはなぜか?もしかすると、親御様は何がしかの答えや解決策を探してのことかな?、とアプローチを深めていくと自立の支援と手助けの両立が可能になります。

 この延長に、認知症症状を表面化させず、一緒に楽しく暮らせる答えがある、というのが私の経験です。

 次回の記事も、認知症を患った実母のトイレ介助についてもう一歩、踏み込んで詳細をお伝えします。

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