『認知症? おそらく罹患しないでしょうね。』
最近の私の口癖に近いものがありますが、認知症の話題になると誰に限らずこのように答えます。
驚かれますが、その理由を次の記事を持ち出し、解説すると納得してくれる人も多いように見受けます。
三度目となった岳母の介護でも、≪ 人はなぜ病に罹るのか? ≫ そのテーマで度あるごとに生命の本当の姿について話をしました。
また、病と老い、そして死はセットで話をするのですが、≪ 人は死に向って生きている ≫ この事実への直視も多くの人が避けます。
岳母も最初は、死は絶対に避けたい、健康的に生きたいという気持ちが非常に強いものがありました。
当たり前と思うかもしれませんが、現実的には、その気持ちが全くもって、人生の役に立たない。
判りやすく言いましょう。
誰もが経験しているはずですが、自分が生きたいがゆえに、嘘をつき、ごまかし、他人を蹴落とし、見下す。
その行為の結果は、良いはずがないですね。
病気も同じです。
原因は、知らず知らずのうちに自分で作っている。
医者は、病気を判別するのが出来るでしょうし、その病気を治癒させる方策も知っているでしょう。
しかし、治せるのは、自らの心が持つ自然治癒力が主であり、ドクターの協力は従です。
なぜなら、病を作ったのも自らの心なのですから、治癒できるかどうかもその心にかかっているのです。
これまでの生きたい気持ち、そして死を避けたいが故の判断が、いまどのような形として人生の終盤において問題や課題として降りかかってきているのか?
生じている問題を直視すれば、それを生じた心を改め、ケジメをつける。
その学びを一緒にスタートさせたのです。
実は、この学びのスタートが、認知症に遠ざける生き方につながるというのが、私の経験です。
マインドフルネスの実践の前に
介護を必要としない介護の実践。
私が、三度目となる岳母の介護で、目標にした取り組みです。
マインドフルネスの実践は、在宅介護のある生活にも欠かせない、というのが私の考えの一つとして大事にしています。
それは、どんな病気にもならない魔法の活動だから、ではありません。
そのような効果、効用を期待するほど、マインドフルネスは上手くいきません。
なぜなら、そのマインドフルネスの源流は、お釈迦様の教えにあるヴィパッサナー瞑想だからです。
そもそも、仏教の教えの根本は、解脱だと、私は理解しています。
また、解脱と言ってもなにも特別なことではなく、無常・苦・無我を学び、因果法則を学び、瞑想を実践するその賜物と、私は理解しています。
例えば、人はなぜ生まれたのか?
この疑問を紐解くのに因果法則を学ぶと、≪ バカだから ≫、というのが答えになります。
多くの人がよく知るフレーズに≪ 生きるとは苦である ≫というのがあります。
無常・苦・無我のうち、苦というやつです。
生きるとは苦であるにも関わらず、生まれてくるのですから、我々は悪趣味のバカだとしか言いようがないわけです。
100歩譲って、ひとまず生まれてしまったのは致し方ないとしても、その生は永遠ではなく、誰もが例外なく死に向っています。
死があるから、生きるが成立つわけです。
つまり、生きるとは死によって支えられているのは判るのですが、生命としての存在そのものが苦ですから、何度生まれ変わったとしても、楽にはなりません。
そうではなく、生きるをいくら追及しても苦でしかないのですから、生死を超越してしまいましょう、というのが解脱の骨子だと学んでいます。
(ここまで内容で間違いがあったら、ご指導を頂戴できれば幸いです)
ですから、病気になりたくない気持ちは判りますが、そのためにマインドフルネスを実践するとどうなると思いますか?
そもそも病気になりたくないというのは、生きたい気持ちの一つの表情です。
マインドフルネスの源流を学べば、それは解脱を目指して生死を超越しましょうという取り組みだと判るのに、病気になりたくない(つまりは、生きたい、そして死にたくない)その一心で実践したところで、上手くいきませんね。
人生の晩年にさまざまな不都合な問題が露(あらわ)になる
手放さない人生を歩むほど、手放さなかった現実が牙をむくように課題として襲ってきます。
親子の問題もその一つです。
また、住んでいる家も同様です。
健康であれば、住み続けられる家も、ひとたび認知症に罹患したり、足腰が弱くなってくれば住まいとして機能しなくなる家もあります。
核家族化が進み、高齢なった人が病になり、老いて亡くなっていく日々を一緒に過ごさなくなってきているので、死を直視した住まいのデザインなど判らないでしょう。
また、そこまで人生を見通している建築家も少ないでしょう。
例えば、二階建て住居なら、二階にリビング、一階に部屋とお風呂・トイレの水回りのほうが、老後は便利です。
訪問医療、訪問介護、訪問入浴のサービスを受ける現実を知っていれば、そうだ、となります。
また、親子の関係が良好な家というほうが珍しい時代です。
要介護となってしまっては決断も行動ももう遅いとなりますから、動けるうちに引っ越しも含めて、手放していく実践が必要なのです。
≪ 常・楽・自分らしく ≫を求めてしまった結果
詳細はここでは割愛しますが、岳母もまた、晩年においてさまざまに手放していく決断を余儀なくされました。
では、なぜ手放していく決断をしなくてはいけない問題を作り続けてしまったのか。
この問題に直視から逃げないのが、認知症を遠ざける秘訣です。
結論から、申し上げれば、湧き出る晩年の課題は、すべてこの世界の法則への反発が招いています。
例えば、無常を取り上げてみましょう。
この世界は、変化生滅し続ける現象でしかありません。
しかし、私たちは変化を極端に嫌っているはずです。
環境の変化が余儀なくされること。
人間関係が変わること。
≪ 常 ≫であってほしくて、≪ 無常 ≫を嫌うのです。
もっと言えば、例えば、このブログ記事を読む前のご自身と、読んだ後のご自身では、もうまるっきり別人なのです。
しかし、特に親子の関係で、親からみて子は、いつまでたってもずっと生まれたばかりのままの可愛い我が子なのです。
他人が聞けば気持ち悪い極みですが、当事者はそうは思わないのです。
思わないというよりも、自分の思い通りのままの子でなければならない、ぐらいの勢いで溺愛したのだから、我が子はいつまでも親を大事にしてくれるはずだと、期待満載で無常を否定します。
こんなバカな発想は、休み休み言わないといけません。
そもそも、親の介護を担える生命は、この地球を隅々まで見渡しても人間しかいません。
しかも、その責任を担える子なんて、ほんの一握りです。
嫌がって逃げてしまうのが、動物としての人間のあるべき姿なのです。
だから、子なんて親の思った通りになんて成長するはずがないのです。
にもかかわらず、親好みの子であってほしいと期待する。
相手が誰であろうと、こうあらねばならないと期待し続ける姿勢は、無常の否定ですから、だから苦しいのです。
そして、この場合であれば子ですが、子に対する期待感、それは親として間違っていないと頑なになるので自分が消えないのです。
そこへ子供から高齢者虐待を受け、悲嘆にくれるのです。
高齢者虐待はやってはいけないことですが、子供は高齢者虐待をするのが当たり前。
そのぐらいに思っていなくてはいけません。
であれば、どういう決断を元気なうちにすれば良いのか。
その程度の疑問もまた、自分の頭で結論を出しておかなければいけません。
それが、≪ 手放す ≫なのです。
無常・苦・無我という言葉は耳にされた人は多いかもしれません。
仏教を持ち出さなくても、この世界の絶対の法則なので、日常生活のもう至る所に発見できます。
ですから、出家しないと理解できないという内容ではありません。
というよりも、日常の瞬間、瞬間の流れは、無常・苦・無我で出来上がっているのです。
ポイントは、私もそうなのですが、この法則に逆らって生きているので、結局、人生の最期の最期まで課題は尽きません、という現象が生じていることに気づくのが重要です。
安直な自己啓発の本を手にすると、自分らしく生きよう!、なんて聞きますね。
無我なのに、自分らしさを追求すればするほど、必要以上に苦労する人生になります。