在宅介護の回顧録– 初めての介護が実母、そして岳父と続いて、岳母が三度目。 –
2012年頃から本格的になり始めた私の在宅介護の経験を投稿しています。振り返ってみて、どの出来事も昨日のように思い出されるので不思議です。在宅介護に真剣に取組み、そこで得た最も大きな学びのひとつは、≪死≫とは何か。在宅介護では親はそれこそ命を懸けて子に≪死≫を教えます。人生の成功者は死を認めます。死とは何かを最大限に諭してもらえる在宅介護の機会を逃すのはもったいないことを多くの人は知りません。
-
認知症を遠ざけるー良い集中力を鍛え、悪い集中力に嵌らないー
高齢になっても異性を意識しようといったスローガンを掲げる人もいますが、それは単に興奮状態の心で脳を酷使しているだけではないでしょうか?興奮は、興奮を呼ぶので集中力が増しているかのように思うかもしれません。でも、脳はダメージを蓄積します。徹夜で麻雀して、興奮してゲームに集中すると思いますが、あの状態が脳に良い影響を与えると思いますか?高齢者に向けて脳の活性化などと称しているフレーズの中身は、よく精査しないといけません。 -
認知症を遠ざけるーありのままを見るー
晩年に湧き出る問題や課題の数々。 感じていらっしゃる方も多いです。その問題や課題を解決するコツは、どうにかしようと思うのではなく、手放す。気がつかなくてはいけないのは、どうにかできる現実など一つも無いという事実の発見です。ありのままを観察できれば、それが判ります。例えば、親子の問題。あれだけ手塩にかけた子供が、自分の面倒を看ない現実に直面すれば、悲嘆に暮れます、おそらく。最も自分の思い通りにしたい現実ほど、そうならないと思うはずです。これがありのままの世界です。 -
認知症を遠ざけるー湧き出る晩年の問題から逃げないー
病気も同じです。原因は自分で作っている。医者は病気を判別し治癒させる方策も知っているでしょう。しかし治せるのは自らの心が持つ自然治癒力が主でありドクターの協力は従です。なぜなら、病を作ったのも自らの心なのですから、治癒できるかどうかもその心にかかっているのです。これまでの生きたい気持ち、死を避けたいが故の判断が人生の終盤においてどう課題として降りかかってきているのか?課題を直視すればそれを生じた心を改めケジメをつける。認知症を遠ざける取組です。 -
認知症を遠ざけるー要介護認定されたいですか?ー
お聞きしますが要介護認定されたいですか?岳母の在宅介護では≪介護を必要としない介護≫を目指しました。当たり前ですが、世の中の介護サービスを受けるには要介護認定が必要です。しかしその必要性を求める疾患が無い以上、介護サービスは必要としません。多くの人が勘違いしているのが高齢になれば介護サービスがあるから安心と思いがちですが違います。介護サービスをできるだけ必要としないライフスタイルの確立が本当の安心なのです。 -
認知症を遠ざけるー活き活きした心で脳を活発化させるー
認知症さえ遠ざければ、在宅介護ははるかに楽になります。そこで、この記事では、マインドフルネスが認知症予防に与える影響について、AIのClaude 3とディスカッションした記録を公開しています。AIの深化は目覚ましいですが、質問するこちらもその分野の専門性を深めていると有意義な議論ができます。しかも、その議論のプロセスと結果は多くの人にとって有益なものになります。認知症だけは避けたい!、そう思われるなら必読の内容です。 -
認知症を遠ざけるー脳の活性化?何それ。ー
脳を活性化すると称して、計算ドリル、塗り絵といった小学校でやるようなペーパートレーニングをやらされるのが介護施設です。そもそも、なんですかね、脳の活性化って。そのようなトレーニングで認知症が改善するとか、進行しない効果があるなら、認知症になる前から取り組めば認知症に罹患しないはずですよね。70歳を超えたら皆、毎日、塗り絵を義務化すれば、日本はとっくに高齢者の認知症など無縁の世界です。こんな当たり前のことさえも洞察できない思考停止の状態が介護の世界なのです。 -
認知症を斬るー認知症と薬物中毒ー
薬物中毒者も、認知症と似たような症状を呈すると聞きます。当たり前ですが、脳が委縮するためです。しかし、薬物を摂取しなくても、極度の不安、もしくは興奮に苛まれるような環境に置かれ続ける日常でも、脳の萎縮は認められるようになります。結果、そのような環境に置かれ続けると認知症のリスクは高まります。逆に言えば、認知症予防は不安、興奮といった刺激を受け続ける環境を避けるか、もし受けたとしてもその感情に呑み込まれない力を身に着けるところにある、というのが私の見解であり、仮説なのです。 -
認知症を斬るー老いるとなぜ認知症に?ー
得られることのない期待と妄想を求め続け、欲と怒りが心を支配していると、脳はオーバーヒートすると考えています。心のありようによってオーバーヒートさせられた脳は、委縮が進みます。個人の見解ですが、このような欲と怒りが支配する心のありようが、老いを加速し、認知症を引き起こしていく最たるリスク要因ではないかと考えています。もっと言えば、老いていく人生のプロセスの上で、心のありようが与える脳への影響が認知症発生の有無を決める、という見解と仮説を私は持っています。 -
認知症を斬るー安心してトイレができるー
認知症を患った実母の在宅介護で、トイレ介助をさせて欲しいとお願いしたところが信頼関係を構築する上でのスタートです。二世帯住宅で長年、共に生活を営んでいても、トイレ介助は絶対にさせたくない、したくない親子関係だってあるのです。むしろ、近くに住んでいたとしても在宅介護はままならないなんてザラです。逆に言えば、トイレ介助の成功の可否が、在宅介護を上手くやっていけるのか、それとも出来なくなるのかの分水嶺といっても過言ではありません。 -
認知症を斬る―トイレ介助の認識の境界―
健常者から見れば、実の親御様であっても、初めのうちは認知症症状の行動は理解できません。しかし、どこまでが判っていて、どこからが判らなくなるのか。その境界を見定めて、気づいてさしあげることで認知症への理解が始まります。不穏や、理解できない行動をとるのはなぜか?もしかすると、親御様が何がしかの答えや解決策を探してのことかな?、とアプローチを深めていくと自立の支援と手助けの両立が可能になります。この延長に認知症症状を表面化させず、一緒に楽しく暮らせる答えがある、というのが私の経験です。 -
認知症を斬る―判る/判らないの境界―
認知症に罹患すると何も判らなくなると思われがちですが、違います。発語ができる健康状態で話をしてみると昔のことは覚えていたり、今、感じている嫌なことは嫌とハッキリとした意思表示もされます。もし、認知症が何も判らなくなる病気であれば、こうはなりません。ポイントは、判らなくなるところ、判るところ、その境界が明確にある認識と見定めです。 -
認知症を斬るー認知症と≪言われる≫のが辛いのですー
認知症に罹患すると、世間はその人を≪認知症を患った人≫とみなします。ハッキリと申し上げましょう。これ、≪その人じゃない≫、と言われているのと同じです。認知症と言われる本人がどれだけ辛いか。想像できますか?認知症に限りません。地球には病気で差別をする歴史があるのです。 -
認知症を斬るー信頼関係の構築がまず最初ー
年老いた親御様の在宅介護で認知症を患っているならば決して蔑ろにしてはいけないのが親子の信頼関係です。親子だからといって信頼関係が成立っているとは限りません。もし、あなたが親の立場であるとき、子の前でパンツをおろせますか?介護する子の立場であるとき、親が当たり前にパンツをおろして介護させてくれますか?このようなことは言うまでもなく当たり前です、と胸を張って言えるような関係構築ができていなければ、意義のある在宅介護は始まらないのです。 -
認知症を斬るー心は認知症に罹患しないー
例えば、認知症を患い、トイレが上手くできない親御様に接すると、介護する子の立場としては怒りませんか?でも、一方で、認知症を患った人に怒ってはいけない、というのを耳にされるでしょう。これでは、在宅介護は困難な坂道を転げ落ちるかのような作業が、ずっと続くかのような未来に落ち込むはずです。また、ここに明確な解決策を出せる人は、そう多くはありません。なぜなら、認知症は肉体(脳も肉体の一部です)に生じる病であって、心に生じるわけではない、この意味が判らないのです。 -
認知症を斬るーなぜ心を学ばないといけないのかー
私は、アルツハイマー型認知症を患った実母の介護経験から、認知症を24/7で観察し、実母とのコミュニケーションを通じて、さまざまな認知症の知見を得ました。その上で、認知症は治りませんが、認知症症状を表面化させないためにはどうすればよいのか。そのノウハウを自分なりに獲得しました。そして、三度目の介護となる岳母との生活では、認知症を遠ざけ、介護を必要としない介護の実践を試み、その介護スタイルを構築しました。