認知症症状を表面化させない介護を実践していると、実母が認知症を患っているというのは判りにくくなります。ある日、月に一回のケアマネージャーの訪問で、担当のケアマネさんから言われたことがあります。
『この分でいくと、次の介護認定は要介護1になるかしれませんね。』
確かに良い傾向です。それぐらいにコミュニケーション・クオリティはしっかりします。
しかしながら、介護施設を利用できる回数を減らさざるを得なくなります。
あちらを立てれば、こちらが立たず、ですね。
記憶とは何か
以前、記憶とは何か、について記事投稿しました。

そもそも記憶には2種類あります。
脳の記憶、そして心の記憶。
いわゆる義務教育や高等教育では、覚えなければいけない科目があります。
例えば、英文法でも、英単語でも良いのですが、ひとまず英単語としましょう。
Aさん、Bさんの二人がいて、Aさんは英語をつかって世界を飛び回る仕事がしたいと思っていました。Bさんは細かい手作業が得意で、もくもくと器用さを活かせる仕事がしたいと思っていました。
二人は、英語のレッスンを受けますが、Aさん非常に楽しくワクワクしながら英単語の意味を掘り下げ、慣用句を調べ、発音をリピートしていきます。一方で、Bさんは英単語の意味を覚えるのがやっとで将来使いもしない語学の勉強なんて意味が無いと思っていました。
言うまでもなく、Aさんの英語力は上達し、Bさんはそれほど上達しませんでした。
さて、この両者に差がつく理由はなにか。
それが、感情です。
感情によって記憶力をフルに活かせる一方で、感情によって、記憶を拒絶します。
つまり感情と記憶は結びついています。
感情と結びつきの薄い記憶は、やがて思い出せなくなります。
一方で、感情と結びつきの強い記憶は、鮮明に覚えています。
どれだけ昔のことでも振り返ってみて、とても感動した出来事はすぐに思い出せるのもそのためです。
逆に、感情の伴わないような記憶、例えばピタゴラスの定理は多くの人が思い出せないかと思います。学校で覚えたはずなのですが・・・。
要介護1になるかもしれませんね
実母とのコミュニケーションは、この≪ 記憶 ≫のメカニズムを使いました。
なので、昔の記憶、といっても思い出話だけではありません。
生きるための道理や道徳についてといったテーマも、実母は昔から精通していたので、その観点から人間関係について介護施設であった出来事を題材にケアマネさんと小一時間程度、毎回のご訪問で会話が弾んでいました。
その様子を見ていれば、誰でも実母が認知症を患っているなどとは思えないでしょう。
ケアマネさんが、『この分でいくと、次の介護認定は要介護1になるかしれませんね。』とおっしゃるのも無理はありません。
私の家の隣に住む幼馴染でもあり、在宅介護経験では先輩ともいえる旧友も言ってました。『さくらのお母さんは、認知症に罹っているなんて見えないよね!』

要介護認定
要介護いくつを認定するために、介護認定調査員が家庭を訪問します。
認知症を患っていると、訪問した際に、認定調査員が長谷賀式認知症スケールのようなテストを実施します。
当時は、実母に冗談で次のような会話をしていました。

このままいくと、お母さんの状態だと要介護1になるぐらいコミュニケーションは出来ているそうだから、上手くボケてね!

うん。わかった。
実際のところどうかというと、わざとじゃなくても判らないものは、やはり判らない。
例えば、なんの脈絡のない3つの絵柄を覚えさせて、後で思い出して答えるというテストがあります。
私も母の横にいて、一緒にテストを受けるのですが、ハッキリ申し上げて、『覚えてられるか!そんなもの』というのが私の実感です。
なので、実母はもっとナチュラルに判りませんでした。
終わった後、私と母とで、『あんなもの、判らんよね・・・。』という感想戦を展開しました。
そして、結果は要介護3。
やはり、ダメなものはダメ。
ですが、そのような短期記憶を必要とする現実世界は、介護する私がフォローすれば良いだけの話です。
実母には、自分の強みや活かせる知見を存分に発揮してもらって、活き活きと暮らしを楽しめれば、私も母も認知症症状に苦しめられません。
認知症症状を表面化させない暮らしのワンシーンです。
認知症を患う親御様を介護していて、日によって、コミュニケーションがとれたり、取れなかったりというお話をよく耳にします。
コミュニケーションが取れるのはどのような要素が原因なのか。実母の在宅介護では、その要因をよく観察し拾い上げていきました。気づかないところにその原因はあります。
例えば、介護するの子の人間性もその一つです。親子であっても別人格です。面倒でしかないと思っている子なのか。それとも、お世話するのが当然と思っている子なのか。それを拾い上げて結集するのが、在宅介護環境です。