落ち込む日々が続く

 虚しさに苛まれる

実母の一周忌を終えるころ、介護をしながら実母と過ごした家から引っ越しました。

もともと、実母の介護をするために借りた物件でした。

同時に、実母を亡くしてからというもの、実はものすごく精神的に参ってしまった時間が続きました。

本当に苦しかったですね。

というのも、目の前で母が亡くなってしまう。

あれだけ力を尽くして看病と介護をしたにも関わらず、大切な実母を亡くなってしまった現実を全く受け入れらない状態が続きました。

自分がやってきたことは、いったいなんだったんだ・・・

少なくない年月の時間、体力、精神力、経済力、ありとあらゆる力を介護に投資します。

しかも、どれも全力を尽くします。

でも待ち受ける結果は、死しかないのです。

この空虚さ。

計り知れない暗黒の闇に突き落とされたような感覚に苛まれる日々だけが過ぎていきました。

実母を喪ったのが2018年ですから、そこから約1年にわたり、そうですね、ちょうどコロナ感染症が流行する前ぐらいでしょうか。

悶々とした日々が続くのでした。

言葉にできない

何をやったところで誰もが例外なく死ぬしかない。

ならば、生きる意味なんてないではないか。

怒りにも似た悶々とした気持ちが支配する日々に、自死の選択も頻繁に脳裏をよぎりました。

友人らが話を聞いてくれると会った時も、気持ちを吐露するのが難しい。

なぜなら、この虚しさを言葉で表現ができません。

言葉にできたとしても、理解してもらえません。

当時の私は、落ち込みも激しく、パートナーも含め、周囲からみれば少し近寄り難かったかもしれません。

同時に、この時はまだ、この苦しい経験が次の飛躍の原動力になるなんて、微塵も想像できなかったです。

人は必ず最期を迎える

この苦しい時を過ごしているある日のことです。

ちょっとした疑問が浮かびます。

そもそも、死とは一体なんなんだ?

この探求が始まるタイミングを迎えていました。

同時に、ちょっとした閃きも浮かびます。

死を探求するのであれば、その答えは、お釈迦様しか持っていないだろう。

特段、深い考えに基づいた発想ではありません。

これまでに経験してきた葬儀も、お寺のお坊さんが、お経をあげてそれでおしまい、というケースがほとんどでした。

なので、ご臨終には仏教、そんな考えしかありません。

しかし、出会うものですね。

自分が必要としている情報、そして真実に。

例えば、お釈迦様の教えを学んでみると、こんな風に言われます。

誰もが例外なく死に向かって生きている。だから、生と死は、表裏一体のようなもの。

今でこそ、まったくその通りと思います。

でも、初めて見聞きするこの言葉がどんな意味を持つのか?

ピンときますか?

死を認められない

このフレーズを聞いても、何を言っているのかよく判らないかもしれません。

でも、次のフレーズを聞くと、どうでしょうか。

多くの人が、自らの死をどこか遠い未来にある自分とは関わりのないイベントのように考えて生きている。

こう言われると、少しは頷ける話になっているはずです。

つまり、ほとんどの人が死を遠ざけて生きているのが現実です。

でも、生と死は表裏一体のようなもの。

実母の死を受け入れられなかったかつての私は、このような生死に関わる事実にも気づいていません。

生きて欲しいと願い、そうなる願いを叶えようと全力を尽くせば、必ず救われる。

ですから、死を認められない。

この愚かさが、私を苦しめているのに気づきます。

ただ、その気づきを得て、絶望の淵から舞い戻るまでに約1年もの歳月を必要としてしまいました。

頑張れば、生きるのが楽しく、ワクワクして、バラ色に充実した人生が送れる。
そう願い、努力を積み重ねての今日のはずです。
それは間違っていない行動ですが、誰もが例外なく死を迎えます。
どうせ死で終わるのだから、生きるとは一体、何なのか?
実は、この疑問に対するアプローチができる立場を得るのが親御様の在宅介護です。
生きると何かを知らなければ、幸せになどなりようがありません。

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