生死のレッスン

 岳母|誰もが例がなく、死に向って生きているのか?

 この現実に、がっかりしてしまった岳母に、ある提案をします。

 私 |死を乗り越えてみませんか?

 岳母|そんなことができるのか?

 私 |はい。肉体が朽ちていくのは仕方がありませんが、もちろん、できます。

 興味を持ってくださった岳母に、まずお伝えしたのが生死のレッスン。

 その最初のセクションが、≪ 命の発見 ≫です。

もくじ

命とは何か?

 この記事を読んでくださっているあなたも私も、ひとまず今、生きています。

 少なくとも、それを何十年と続けていますが、≪ 命とは何か? ≫と聞かれて即答できますか?

 もっと基礎的な質問にしましょう。

 ≪ 命を見たことがありますか? ≫

 おそらくは、あやふやな答えになると思います。

岳父の死が命を発見させる

 親御様と命の話をするというのは、貴重な機会です。

 ただ、簡単ではありません。

 多くの人が忌み嫌う、≪  ≫を俎上にのせなければいけません。

 ただ、大切な人を亡くした機会というのは、多くの人にとって、その悲しみが消えないものです。

 一方、この悲しみを、バネにするのが残された人のつとめでもあります。

 ですので、岳母には、岳父とのお別れの機会を積極的に振り返るところから生死のレッスンを開始です。

命を浮かび上がらせる

 誰もが例外なく死に向っている現実に落胆していた岳母との話は続きます。

さくら

お父様が亡くなられたじゃないですか。

ご遺体って、人だと思いますか? それとも、モノだと思いますか?

 ドキッとする質問ではないでしょうか。

 岳母も、若干、驚きの表情をされていたのをよく覚えています。

 そして、多くの人がその答えに詰まるはずです。

岳母

・・・

さくら

モノです。

人と思いたい気持ちがあるのは判りますが、事実はモノです。

岳母

・・・

さくら

それは、命の有無です。

モノと命がセットになって生命です。私たちで言えば、人間です。

その生命から命が無くなれば、もう生命ではなく、モノになります。

ですから、ご遺体になったお父様は、人ではなくモノです。

肉体の姿かたちは、生前のままなので、人と思いたいですよね。でも、モノでなければ荼毘にふせません。

 私の話を聞いて、岳母も納得されます。

さくら

お母さん、ここで重要なのが、亡くなられたお父様のご遺体と、生きている私たちとの比較なんです。

 この生きている私たちの今ある存在と、亡くなった愛する人のご遺体の比較という発想をお持ちの方はそう多くないはずです。

 実は、私たちは生きているままで鏡をのぞき込んでも、≪  ≫を発見できません。

 なので、≪ 命と何か? ≫と聞かれても答えに詰まります。

 しかし、命とは、亡くなったご遺体と、生きている私達の比較、つまり差分によって鮮やかに浮かび上がります。

 次の公式です。

≪  ≫ = ≪ 生きている私たち ≫ - ≪ 亡くなったご遺体 ≫

 まず、相対的に、≪  ≫はこのように発見する。

 それが、生死を学ぶ最初の一歩なのです。

 亡くなったご遺体が、人なのか、それともモノなのか。

 他人事として考えれば当たり前といえば当たり前のようにモノだと判ります。

 しかし、亡き愛する人への思いは、それを見誤らせます。

 それが愛着のなせる業です。

 この記事とは、視点は異なり愛着に言及しますが、愛着は、時として安心や癒しをもたらしますが、事実を見抜けなくする危険性を常にはらんでいます。

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